妻子を思う一念

(中略)私は「ソ連より無罪の判決を受けたのだから、もう捕えられる心配はない。妻子の生死を確かめるために、巡礼姿でドイツに戻りたい」と大使に懇願した。
 これに対し、大使は(中略)「あなたは貴重な研究を身につけた人であり、できるだけ早く日本に帰してお国のために働いてもらわねばならぬ」と強く主張されたのである。
 しかし、私は私で妻子を思う一念で巡礼を言い張って結論が出なかった。すると、大使は私をなだめるように「疲労のために神経が高ぶっているから、いったん部屋に戻って休息してからもう一度くるように・・・」と話しかけられ、私もそれ以上無理がいえなくなって部屋に戻ったのだ。一時間ほどまんじりともせず、部屋の中を歩きまわっていたが、今度こそは、と実に悲壮な決心をして大使の部屋にふたたびおもむいた。
 部屋に入ったとたん、大使は何通かの電報を手にして、椅子から立ち上がり、私の方に歩いて来てこういったのである。「私の大使としてのお勤めはずいぶん長いが、一国元首の代理人たる大使の名において、一私事に関して他国の元首にお願いの電報を打ったのはこれがはじめてです。スイス、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの元首あてに、浅井家族救出保護を依頼しました」
 私はもう一言も発せられなかった。深々と頭を下げて「一刻も早く日本に帰り、今戦っている日本のために死力を尽くします」と堅く大使に誓ったのである。ふと顔を上げて大使の顔を見ると、大使は泣いていた。それは私の心情を察しての涙だったのだろうか。(p.57、l.3-p.58、l.11)